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私的 松林飯山 顕彰事業

私的松林飯山顕彰事業ページの概要

2017年の没後150周年にむけて、僭越ながらも私淑の思いあまって、松林飯山を顕彰していくページ。主に飯山文集より訳出などをしていこうと考えております。

※私は無学ですので、間違いが少なくないと思います。もし間違いを発見されましたら、ご指摘くださると幸いです。随時改善いたします。(2012・11)

松林飯山の関連画像

  • 松林飯山 碑文
  • 松林飯山 墓碑
  • 松林飯山 大村史跡の説明
  • 飯山文集

私的松林飯山顕彰事業ページの目次

1.松林飯山の略伝、年譜
2.幼年期(天保10年、駒次郎5歳)
3.易経の漸卦について
4.飯山の愛した詩文 「翻刻壮悔堂文集の序」より
5.肥後に在する弟に寄す
6.戯れて郷中の親友に寄す
7.千逵
8.醉後放言

9.飯山の文戯

1.松林飯山の略伝、年譜

名は漸。字は伯鴻。号は飯山。幼名は駒次郎。漸之進と称し、後に廉之助と改める。
名の漸は易経の卦。字の鴻はその卦中の象徴。漸之進は同じく同卦の彖伝に見える。号は故郷の山、飯盛山に由来するものと考えられる。自分で付ける字や号からは其の人と為り、志を垣間見ることができます。

出生は北筑 早良郡 金武村 大字羽根戸。約50戸、一面の桑畑に、西方には飯盛山が聳え立つ場所である。山下に飯盛神社があって、飯山4歳の頃、痘瘡にかかり危なかったが、無事治癒した後、参拝したという。余話だが、五歳の頃、この神社の祭りに父杏哲に連れられた時、見世物屋の曲馬とあるのを不審に思って「まがりうま」とは何ですかと尋ねていたという可愛い話が伝わっている。

父杏哲は医者であり、また画をよくした。その影響か飯山も画を描いており、それが残っている。また家が貧しいためか、寺子屋で字を教えており、飯山にも幼少の頃から書を誦させて、3歳で唐詩百絶、4歳で「千文字」「孝経」「大学」、5歳で「論語」を6歳で「孟子」、7歳で「詩経」を授けている。9歳のとき、父と大村へ移り住む。12歳のとき、大村藩主大村純熈に聘せられて、唐詩選を進講。俸一口を賜り、そのまま入学。

嘉永5年、14歳。命を奉じて江戸に遊学。安積艮斎の門に入る。
安政2年、17歳。見山楼で主席を務める。同門に隣藩である鹿島藩の原應候が入門し、親交を結ぶ。
安政3年、18歳。8月、昌平黌に入る。ここで松本奎堂岡鹿門と交友を結ぶ。10月、藩邸で回天詠史を論議する。
安政4年、19歳。應候が昌平黌に入門する。7月、大野孝孫と共に脚気を医すために日光へ漫遊する。
安政5年、20歳。昌平黌で詩文係を務める。
安政6年、21歳。3月、帰藩。馬廻りになる。また藩校五教館の教授に薦められるが固辞。5月、学頭となる。
万延元年、22歳。8月、藩命により浪華へ。名を漸之進に改める。11月、艮斎死去。往年70歳。
文久元年、23歳。3月鹿門と再開、6月また別れる。10月、京に赴き奎堂、鹿門に会い、和宮の降嫁を拝観す。11月、河野鉄兜の企画で奎堂、鹿門、鉄兜と書画会を開く。同月、雙松岡塾を開く。題字は鉄兜による。
文久2年、24歳。5月、塾の閉鎖を余儀なくされ、鹿門は仙台へ、奎堂は淡路へ、飯山は病気のため神戸の香字庵に滞在する。解散以前、応侯の訪問あり。7月、父に随伴し帰藩する。五教館の助教となる。
文久3年、25歳。1月、藩命により浪華へ。6月帰藩。8月、藩命により後機隊に入り長崎へ。9月、奎堂殉死。京都へ馳せようするも、同藩の渡辺昇の説得により藩へ戻る。10月藩校の教授に任ぜられる。また往教(武館へ往きて教授する者)に進められ、これを固辞するも許されず、教授往講になる。12月、昇らと勤王派を結成。
元治元年、26歳。近習番頭格に進む。旗下隊に入る。8月、藩庁より言路洞開の令が発せられ、9月に四事、乃ち賞罰、賄賂、奢侈、礼節を以て上書す。11月、特旨を以て政務に参じる。昇の建議により近習外様の別が無くなり、佩刀して武館に通うようになる。
慶応元年、27歳。8月、藩命により島原へ。
慶応2年、28歳。佐賀藩を支藩である鹿島藩主を通して勤王へと覚醒せんために、応侯に斡旋を乞う。鹿島藩主及び応侯はこれを佳しとするも、事成らず。因みに鹿島藩主は万延元年、文久元年に応侯の仲介により奎堂と勤王の意思を通じている。
慶応3年、29歳。1月3日、城での宴よりの帰宅途上、自宅付近にて佐幕派の凶刃に襲われる。袈裟にほぼ一刀両断にされ死去。

2.幼年期(天保14年、駒次郎5歳)

「父杏哲諭す」、「題菊」、「題松」より意訳、および創作。

癸卯10月11日夜。親子床に就いて駒次郎に謂って曰く
杏「お前も詩を作るか」
駒「詩はわかりません」
杏「詩は物の情を言えばよいのだ。鶏の詩は鶏の言を、菊の詩は菊の形を、という具合だろうか」
駒「菊の詩をつくる!」

(・・・できた!)
駒「菊花紅黄白 葉玉緑語汝(菊の花 紅や黄や白/葉の玉 緑で汝に語らえり)」
杏「ははは、小共らしい感性と謂うべきか。よしよし」
駒「こんどは松をつくる♪」

(・・・よし!)
駒「松秀帯畑幽人弧 高節鱗々仙人深(松の秀 畑を帯びて 幽人弧たり/高節 鱗々 仙人深たり)」
杏「うむ。松の情趣がきちんと出ておるぞ」
(ふむ、わが子ながら中々いい感性をしておる。これは将来大物になるかも知れんな)

3.易経の漸卦について

松林飯山の名と字は、易の漸卦に由来していると考えられる。そこで今日はこの、卦(か)を紹介して飯山の心持ちを伺おうという試み。(※易についてもシロウトですので、細かいことはご容赦ください。)

この卦は全体が鴻(かり)の群れが水際から順次進んで最後は整然と雲路へと飛び立ってゆくという具合に構成されている。

易は8×8の計64の卦の象(かたち)をみて吉凶を判断するもので、いわゆる八卦には乾、兌(ダ)、離、震、巽(ソン)、坎(カン)、艮、坤があります。この八卦をもとに、乾を天と観じ、坤を順と性格付けし、震を東に配し、巽を鶏、坎を豕(ぶた)、離を目、艮を手、兌を少女に、というふうに象徴して様々な角度から解釈していきます。

漸卦は八卦のうち巽と艮の二つから構成されており、さらに巽を上に、艮が下に配します。
巽は木あるいは風、艮は山です。山上に木が繁げる様子がイメージできます。

「象に曰く、山上に木の有るは漸なり。君子賢徳に居りて以て俗を善くす。」

どっしり落ち着いて徳を養い(艮山)、それを基にして風俗を美にしていく(巽風)。
説明がくどいようだが、つまり先ず安定した土壌があって、そこで始めて木々が健やかに成長していくのであるから、君子はよく徳を養いそれを土壌として、大衆が健やかに成長できすように感化を与えるのだ、ということである。ここにも十分に飯山の志を伺うことができるだろう。

「彖に曰く、漸はこれ進むなり。女の帰(とつ)ぐに吉。進んで位を得る。往きて功有るなり。進むに正しきを以てす。以て邦を正すべきなり。其の位は剛にして中を得る。止(とど)まりて巽(したが)い、動きて窮まらず。」

正義をもって事を進め、地位を得て国を正してゆく。ここにも飯山の気持ちが伺えるだろう。それでは更に内容を見ていこう。

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「初六。鴻の干(水際)に漸(すす)む。小子厲(あやう)し。言あれども咎なし」
水際がスタート地点です。まだ子供なので飛び立つのは危ない。批判がでても心配はいらない。

「六二。鴻の磐(大石)に漸む。飲食カンカンたり。吉」
大石まで進む。やや成長し飲食も盛んになります。ここで飛び立つための力を養います。

「九三。鴻の陸に漸む。夫は征して復せず。婦は孕みて育てられず。凶。寇を禦(ふせ)ぐに利あり」
陸に上がりますが、飛び立つにはまだ早い。行けば群れから離れてしまい、孕んでも育てる手立てを得ることができない。無理に時勢に逆らわず、同志と助け合って外敵を防ぎ、お互いに研鑽して道を得られるよう努めなければならない。

「六四。鴻の木に漸む。或いは其の桷(平枝)を得る。咎なし」
木に寄って枝に憩います。道はまだ先に続きます。一旦休んでこれまでの疲れを癒し、英気を養う必要があります。

「九五。鴻の陵(高処)に漸む。婦三歳孕まず。終にこれに勝つことなし。吉」
ようやく丘陵に到って、いよいよ飛び立ちの日が近づいてきた。時を待つこと既に久しく、互いの信頼は厚いものとなった。願うところ、志すところ、終に酬(むく)われる。

「上九。鴻の逵(き)に漸む。其の羽もって儀と為すべし。吉」
鴻が整然と群をなして雲路を遥かに渡ってゆく。吾人の好規範となすところである。

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ちなみに、漸卦は艮卦の次の卦である。飯山が安積艮斎の門下生であることを考えると、艮斎の薫陶を被った自分は、この時勢にあたって大成するぞ、という気持ちがあったのかもしれない。

参考にした書籍:易学入門/安岡正篤、易経(岩波文庫)、ビギナーズ・クラシックス易経(角川ソフィア文庫)

4.飯山の愛した詩文 「翻刻壮悔堂文集の序」より

「余嘗て侯朝宋の文を読みて之を嗜む。手に一本の写し、起臥常に手を離れず。他人嘲笑すること百端にして、余の嗜み終に変せざるなり」

侯朝宋は明末清初の人。飯山はこの人の文章を自ら手写して、常に肌身を話さなかった。しかし当時は流行らなかったのか、

「今世一種の文人有り。専ら文法を唱う。好んで古人を排撃して朝宋において尤も甚だしとす」

という状況。そんなことには関せずに、飯山のこの嗜みは変わることがなかった。それは文章に対する独自を見解をもっていたからであるが、

「嘗て窃かに謂う。文の喜ぶべきは生気有るを以てのみ。文にして生気無くんば、語は巧と雖も、意は円と雖も、以て読者の心目を快しとせんや」

文章には生気がるかないか、これだけである。生気がなければ、いくら巧みに書こうとも、当たりよく書いても、畢竟取るに足りないのである。また朝宋を評して、

「朝宋の短所、吾復た論ぜず。其の叙伝等諸作に至れば、縦横錯綜、鬱勃変化、時有りて悲壮慷慨、時有りて凄惋沈痛。(中略)純として生気を以て之を行う。清初の諸儒、未だ其の比を見ず」

朝宋の短所は論じない。長所をとる。その作品を観れば、自在に縦横し、複雑に錯綜し、鬱勃として起こり、変化して止まない。ある時は悲壮慷慨し、またある時は凄惋沈痛している。(中略)純然とした生気が存じている。このような人は清初の儒者には他にいない。

ではここで、その朝宋の詩をひとつ。

鳳皇自天来    鳳皇 天より来る
三顧頗迥翔    三顧 頗る迥翔
羽儀粛威潔    羽儀 威を粛して潔く
一鳴振清芳    一鳴 清芳を振るう
碧梧結秋実    碧梧 秋実を結び
晩啄亦何妨    晩啄 亦何ぞ妨げあらん
嗟彼稲粱羣    嗟(ああ) 彼の稲粱の群れは
徒以豢中腸    徒(ただ)以て中腸を豢(やしな)うのみ
千仭飛空虚    千仭 空虚に飛び
胡何籠與房    胡何(なん)ぞや 籠と房と
岐周有聖人    岐周 聖人有り
乃始下朝陽    乃ち始めて 朝陽を下る
若非感玄徳    若し玄徳に感ずるにあらざれば
豈棲枳棘傍    豈枳棘(キキョク)の傍らに棲まんや

※迥翔・・・はるかに飛翔する、羽儀・・・羽が礼儀正しく整っている様子(また前記事の漸卦、上九を参照)、晩啄・・・おそくに啄む、稲粱群・・・稲や粟に群がる小鳥、中腸・・・腹の中、豢・・・養う、籠房・・・ともに弓矢を入れる物、岐周・・・岐は山名で周は国名、朝陽・・・日の当たる山の東側、桐梧を生じる処、枳棘・・・ともにトゲのある木

何を言っているのか無学の私にはさっぱり分かりません(汗)しかし内容はよく分からなくとも、一読胸をすく思いがします。飯山の言う生気を感じることができます。

5.肥後に在する弟に寄す

故郷分手菊開時    故郷 手を分かち 菊開く時
兄弟東西異所之    兄弟 東西 所を異にす
音問経年何不到    音問 経年 何ぞ到らずや
夢魂幾度費相思    夢魂 幾度と 相思を費やす
落花飛絮春空盡    落花 飛絮 春空しく盡き
弧枕残燈夜亦遅    弧枕 残燈 夜亦遅し
勿効吾人長作客    効う勿れ 吾人の長く客と作るを
一貧如洗只耽詩    一貧 洗うが如し 只詩に耽る

※音問・・・知らせ、手紙

飯山には義弟がいました。飯山文集の例言などを書いており、名前は義規子周とあります。上の詩を意訳しますと、

故郷で別れたのは丁度菊の花の咲く頃であった。君は肥後に留まり、私は江戸へ遊学し、それぞれ東西をへだてている。一体、何年もの間、便りがないのはどういうことか。かわりに何度となく君を夢に会っているが、君もきっとそうであろう。花は落ち、絮は散って、春も空しく終わろうとしている。枕のそばのロウソクの火は消えなんとし、夜もまたすっかり更けておる。弟よ、私のように長く客人となるんじゃないよ。貧しさに苦しむ心を洗おうとして、私はただ詩に耽っているのだから。

6.戯れて郷中の親友に寄す

旅食京華又一年    旅食 京華 又一年
同遊惹夢尚依然    同遊 夢に惹かれて 尚依然たり
柳塘鞭影春風雨    柳塘 鞭影 春風雨    
蘋浦笙聲夜月船    蘋浦 笙声 夜月船
掛玉榮生徒自累    掛玉 生を営むに 徒に自ら累す
烟花投足奈無縁    烟花 足を投ぐるは 奈(なん)ぞ縁無からん
他郷不若家山好    他郷 若(し)かず 家山の好
況有城南ニ頃田    況や城南にニ頃田の有るをや

※京華・・・都、烟花・・・春の艶やかな景色、柳塘・・・柳の生えているつつみ、蘋浦・・・浮き草のある水辺、投足・・・くつろいでいる様子、城南・・・大村城の南地区


地元を離れて、華やかな都会の日々、こうしてまた1年が過ぎてゆく。俺と同じように地元を出てきた輩(ともがら)は、夢に惹かれるように、やはり従来の暮らしを懐かしく思うそうだ。柳の堤に、鞭の影。この春、雨と風が心地よい。川に浮草、笙の声。この夜、舟を浮かべて見る月の美しさよ。(理解不足のため訳不能)春霞の中、互いに足を投げてくつろいでいるのも何かの縁。他郷が、我が家や故郷の山の居心地に勝るわけがない。ましてや城南に2頃の田があるだから尚更のこと。

7.千逵

当サイトに飯山を研究されているという方からメールが届いた。曰く、飯山は千逵という号を用いていており、これも易経からとったのだろうということだった。

これは私には初耳だった。もしこれが本当のこととすると、たしかにこの号も易経からとったに違いない。

逵(き)は漸卦の上九に出てくる(3.易経の漸卦についてを参照のこと)。その上九をここに再記しよう。

「上九。鴻の逵(き)に漸む。其の羽もって儀と為すべし。吉」
鴻が整然と群をなして雲路を遥かに渡ってゆく。吾人の好規範となすところである。

以上である。千逵の逵は雲路のこと。千は推測するに数多の鴻(かり)の群れを表現しているのだろう。数え切れないほどの鴻の群れが一斉に勢いよく飛び立ってゆく。なんとも雄大で絵的である。

逵に千という一字を付けただけで、漸卦の上九の意義を存分に言い表し、さらに自分の理想の遠大さ、意気の雄々しさを表現することに成功しており、飯山の文才が充分に発揮されている秀逸な号だと思う。

8.醉後放言

満腹文章躍不已    満腹 文章 踊って已まず
得酒咄嗟吐盈紙    酒を得 咄嗟に吐きて紙に盈つ
鼻端出火筆生風    鼻端 火を出だし 筆は風を生じ
倚馬草檄差可擬    馬に倚り 檄を草するは やや擬すべし
自作自誦還自誇    自ら作し 自ら誦し 還(ま)た自ら誇る
筆力縦横世無比    筆力 縦横 世に無比なり
快利何啻下阪丸    快利なること 何ぞ啻に 坂を下る丸(たま)のみならむ
渾浩真如注壑水    渾浩なること 真に 壑に注ぐ水の如し
此時酔膽大如天    此時 酔って 胆の大なること 天の如く
睥睨他人同蟲蟻    他人を睥睨して 蟲蟻に同ず
曰狂曰妄任彼呼    狂と曰ひ 妄と曰ふも 彼の呼ぶままに任す
我信吾心而已矣    我 吾が心を信じるのみ
朝廷若置取才科    朝廷 若し才を取るの科を置かば
立談唾手拖靑紫    立談 唾手 青紫を拖(ひ)かむ
如何低首伍巫醫    如何(いかん)ぞ 首(かしら)を低うして 巫医と伍し
空抱毛頴至老死    空しく毛頴を抱きて 老死に至らむや
有客唖然笑我傍    客有り 唖然として 我が傍らに笑ふ
汝爲大言不自恥    汝、大言を為して自ら恥じず
皐夔稷契讀何書    皐・夔・稷・契 何の書をか読む
文章畢竟雕蟲技    文章 畢竟 雕蟲の技


※倚馬・・・馬の前に、草檄・・・檄文を起草する、渾浩・・・水の勢いがすごく強い様子、毛頴・・・筆、皐・夔・稷・契・・・いずれも上古の聖王の堯、舜の大臣、雕蟲・・・ここでは取るに足りないという意味


飯山の漢詩の中で、一番のお気に入りのものです。
詩の中にもあるように、文章に勢いが溢れています。以下、意訳。

腹いっぱいの文章は踊ってやまない。酒を飲めば、咄嗟に吐いて紙に文章が盈ちていく。鼻から火を吹き、筆は風を起こす。呼ばれて馬のそばに寄ると、忽ちに紙7枚の檄文を草したという袁虎に、まあ擬してもよかろう。自分で作ったものを自分で誦してみたが、なんと立派な文章だろうか。筆力、縦横にして世に無比である。すらすらと書き綴られ、なめらかに進むことは、どうして坂を下る玉のみであろう。大量に書き付けられ、水が勢い良く溢れること、まさに谷を満たすほどの水を注ぐようである。

いい具合に酔いがまわって、胆の大きいことは天と等しく、他人を睥睨して、まるで虫のように気にも止めぬ。狂ってるとか、出鱈目だとか、彼らの好きなように言わせるがよい。俺は俺を信じてやるだけだ。もし朝廷が才能を試験する場を設けたならば、立談・唾手して高貴な衣装を曳いて歩いただろう。どうして頭をたれ、低い身分のままに、空しく筆を抱きながら老死しようか。そばに居た客は、唖然としながら嘲笑して言う。「君はそんな大事を言って恥ずかしくないのかね?」

ああ、上古の聖主を補佐した、皐・夔・稷・契といった大賢たちは、いったい何の書を読んだというのか?書物なんてなかったんだから、読んでいるわけないんだよ
文章がいくら立派だったとしても、そんなのは所詮、道義の尊さからすれば、本当に些細なことなのだ。

9.飯山の文戯

以前に飯山の号に千逵というものがあるという話だったが、同時に百拙という号もあるらしい。真偽は定かではないが、飯山が百拙という単語を何らかの形で使用したことは十分にあり得る話だろう。というのも、飯山文庫の目録に『十駕録』というものがある。これはたしか読書録だっただろうか。

もうお気づきかと思うが、十駕、百拙、千逵で、数字が繰り上がっていっている。それが今回の記事のタイトルに文戯と書いた所以であるのだが、こういうちょっとした遊び心が飯山にはあったらしい。この手の戯れは有りそうで、中々見ない(まあ僕が見ていないだけかもしれない)。

千逵については上に解説したとおりであるが、百拙については出典が分からないのでとりあえず憶測すると、稚拙の故に百回の切磋を要する、いうぐらいの気持ちだろうか。十駕というのは、たしか『荀子』に「たとえ一度に千里を走る駿馬でなくても、十度賀すれば同じ目的地に着くことができる」という地道に学問を積むことを説いた話があったと思うが、それに基づいているだろう。千逵の号でもそだったが、百拙や十賀からも、飯山がどういう人物だったか、またその姿勢や物の考え方がどうだったかというのがよく分かる。

10.龍頭泉に遊ぶ

両崖環擁翠屏圍    両崖 環(めぐ)り擁す 翠屏の圍
瀑布從其凹處飛    瀑布 其の凹処に従ひて飛ぶ
潭上松皆纏葛布    潭上の松は皆 葛布を纏ひ
水中石盡着苔衣    水中の石は盡く 苔衣を着く
幽禽聲断渓琴合    幽禽の声 断じて 渓琴合し
老樹陰深嶺日微    老樹の陰 深うして 嶺日微かなり
佇立少時身已濕    佇立 少時 身已に湿(しめ)り
奔流吹沫晩霏々    奔流 吹沫 晩く霏々たり


※龍頭泉大村市千綿にある八間滝の別称。翠屏みどりのついたて、瀑布滝、幽禽幽所にいる鳥、断じて断続的に、霏々降りしきる様子

みどりがかった岸が辺りを聳えてめぐり、滝は凹んだ処に当たって飛び跳ねる。滝壺の上の松はどれも水をかぶって葛布を纏ったようで、水中の石はすべて苔の衣を着けておる。幽禽が鳴けば渓が合わせて琴を奏で、老樹の陰は深く、嶺の日光は微かに入るぐらい。しばし佇んでいると体はもう湿ってしまった。奔流が沫(あわ)を吹いたと思っていると、今度はそれが降りしきる。